略歴と背景


Back to the Home Page.
もしここへ間違ってきてしまったのなら。

James P. Hogan

1941年ロンドンで、アイルランド人の父とドイツ人の母から私は生まれた。
第一次大戦後、今はポーランドの一部になっているシレジアに駐留していたイギリス占領軍兵士の一人を見つけるため、母は19才のときに歩いてヨーロッパを渡ってイギリスへ来た。
彼女はついにその兵士に出会って結婚し三人の子供をもうけたが、彼は戦争中ざん壕でガスにやられた後遺症で30代半ばで死んでしまった。母は私の父ホーガンと再婚した。
この話を本にすべきだと多くの人に言われるが、いつかそうするかも知れない。

私は、ロンドン西部の極めて実利的な労働者階級のポートベロー・ロード地区で育った。
両足がかなりひどく不自由な状態で生まれ、矯正手術に年月を要したが、腕利きの医師たちのおかげで10代の頃にはウェールズやスコットランドの山へハイキングやキャンピングに行かれるようになった。
そんな頃、読書に興味を持つようになり、それは当然のごとく長続きすることとなった。

学校にはあまり関心がなかったし、私にはひどく古くさく思えたので、16才で学校をやめ、毎年行われる全国各地の政府系研究機関の奨学生選抜試験を受けるよう母に説得されるまでどうにもならないような雑多な仕事についていた。なんとかその試験を通り、ファンボロウにある王立航空研究所(ロイヤル・エアクラフト・エスタブリッシュメント)に入った。そこでは5年の集中的かつ広範囲な電気、電子、機械工学の実際と理論両面を学んだ。(カリキュラムにも基本的な航空力学は含まれていたが、私は航空工学のエンジニアではない。いくつかの私の小説の紹介欄でそう書かれてはいるが。一度誰かのコンピュータにこうしたことが記録されてしまうと、それを削除することは不可能だ。最終的には私は電子工学が専門だった。)

ファンボロウでのコースは徹底的かつ高水準で私は楽しかった。しかし、後になって卒業はしたけれども、私は5年間きっかりで修了しなかった。私はかなり若くして結婚し、20才の時にはうれしくも双子の父親になった。これは3回に及ぶ結婚の最初で、その双子はやがて6人となる子供たちの最初だった。”インテリジェントな”システムというのは、経験から学び自身の態度を改良できることと定義できるだろうが、私はといえば学ぶという面では該当するが、結果としてほとんど何も変わらないのだから、道半ばであろう。

始めのうち、私はいくつかの会社で設計エンジニアとして、産業、学術研究機関で使用されるデータ収集/分析用のデジタル制御機器の設計に携わった。それらは製紙、ガラス製造、製鉄、防衛関連研究におけるコントロールとモニタリングに関するものだった。我々の罪は結局我々に追いつき、私は営業部門に移った。1960年代のことだ。オンライン、リアルタイム・コンピュータは重たい電線ばかりの電子機器にものすごい勢いで取って代わり、その分野で働く誰もがコンピュータ産業に重点を移していくのは不可避だった。私はハネウェルのセールスエンジニアとしてヨーロッパ中を回ったのち、1970年代になって、デジタル・イクイップメント社(DEC)のラボラトリー・データ・プロセッシング・グループに加わった。1977年には、DECの科学用途専門の営業スタッフ向けセールス・トレーニング・プログラムを運営するため、マサチューセッツに移った。

私は何年も趣味としてSF小説を書いていた。思い出すと、職場の賭けで書いたのが最初だった。私は勝って、それは私の最初の小説”星を継ぐもの”として1977年に出版された。1979年までに私は四本の小説を書き、一般的なSF界のみならずプロの科学者の間でもよい評判を得ていた。私は当時、2度めの結婚の中心だったマサチューセッツの家を売ったばかりで、気持ちのうえでは失業者だった。それで、フルタイムの小説家としてやっていくためDECも辞めて、1979年の秋、クルマ1台にスーツケース2個と日本製のタイプライター1台、それにデルレイ社とのもう1冊書くという契約を持ってボストンを離れた。

私はフロリダ州、オーランドに落ち着いて一年ほど過ごし、カリフォルニアから来たジャッキーに出会った。 私たちはシェラネヴァダ山麓のかつて金鉱の町だったソノーラへ移った。人生で最も予想がつくことは、予想できないことがおきるということだ。そんなことの一つは、マサチューセッツから南へ下った日に私が漠然と考えていたのんきな作家人生には、すでにいた3人の娘に加えてさらに3人の息子をもうけることを考慮に入れなかったことだ。 しかし、私たちは何とか切り抜けられたので、このサバイバルプランは試練を乗り越えたんだと思う。

結局、私の中のアイリッシュ系の血が明らかになったようで、80年代後半に私たちは大西洋を再び渡り、ダブリンの南12マイルの海辺にあるノーザン・ウイックロウのブレイという町に落ち着いた。 私は今でもアメリカの家を維持しているが、それはフロリダ北西のペンサコラにあり、コンベンションに顔を出し旧交をあたためるのに便利なので、たいてい一年のうちの数ヶ月を過ごしている。 アイルランドとアメリカは互いに補完しあっており、一方での長引いた滞在の後、もう一方へ帰るのはかなり良い組み合わせだ。こんな両極端の交流は、私見だけれど、平均的なライフスタイルに概略近づくことになることになると思う。これは躁鬱の平均が平常だというのに似た統計的論理だ。


そんなわけで、これがいくつかの箇所で多少こみ入った、当初私自身が考えていたより確かに複雑な、今までの話のアウトラインである。もちろん終わりはまだ書き上げていないが。しかし、執拗な出版要請に対してもう何章か書けると期待している。